로그인午後七時を少し回った頃、ホテル最上階の宴会場では、すでに二百人近い招待客がグラスを手にしていた。
天井から吊られた照明は柔らかな金色で、窓の向こうには東京の夜景が広がっている。高層ビル群の明かりが地平線まで続き、その上を物流ドローンの航路灯が規則正しく流れていた。数十年前なら未来都市の映像として描かれていた景色が、今では誰も気に留めない日常になっている。
如月蓮は、その夜景を背にして何度目になるか分からない乾杯を受けていた。
「先生、本当におめでとうございます。いやあ、私もいつか先生は取ると思っていましたよ」
そう言ったのは、十年ほど前に蓮の大型研究予算へ反対票を入れた大学理事だった。
蓮はグラスを口元へ運びながら、目だけで高瀬を見た。
高瀬も事情を覚えているらしく、笑いを堪えながら顔を背ける。
「ありがとうございます。理事には昔から応援していただきましたからね」
蓮がそう返すと、理事は少しだけ目を泳がせた。
「もちろんですとも。私は、基礎研究というものは長い目で見る必要があると、常々申し上げておりまして」
「そうでしたか」
「ええ、ええ」
「十年前の研究審査会の議事録には、ずいぶん違うことが書いてあった気もしますが」
理事の笑顔が固まった。
すぐ横から高瀬が蓮の背中を軽く叩く。
「先生、こちらにもご挨拶を」
「まだ話の途中だ」
「途中じゃなくて終わりです。理事、今日は本当にありがとうございます」
高瀬は蓮の腕を掴み、半ば強引に別の場所へ連れていった。
「離せ」
「先生、今日は喧嘩する日じゃありません」
「喧嘩じゃない。記憶の確認だ」
「相手が忘れたふりをしてるんだから、そこは大人として忘れたふりを返すところなんですよ」
「科学者が事実を曲げてどうする」
「人間関係は論文じゃありません」
蓮は鼻を鳴らした。
「やっぱり面倒だな、人間は」
「その面倒な人間から研究費をもらって二十年以上研究してきたんでしょう」
「だから我慢している」
「我慢できていませんよ」
二人のやり取りを聞いていた若い研究員たちが笑った。
宴会は当初、研究チームだけでささやかに祝う予定だったらしい。
ところが受賞が発表されると大学が正式な祝賀会へ変更し、さらに共同研究先、大手企業、政府関係者、海外から来日中だった研究者まで参加することになった。
結果として、蓮自身が名前すら知らない人間まで彼を祝っている。
ありがたいとは思う。
同時に、妙でもあった。
昨日まで廊下ですれ違っても会釈しかしなかった人間が、今日は昔からの親友のような顔をして肩を叩いてくる。
ノーベル賞には、人間関係まで量子化する力があるらしい。
「如月教授」
外国語で呼びかけられ、振り返る。
欧州系のエネルギー企業役員が、通訳を伴って立っていた。
「受賞おめでとうございます。我々はQ-Genesisを利用した次世代送電網の最適化について、ぜひ共同研究を進めたいと思っています」
「ありがとうございます。ただ、今日は契約の話はやめましょう。酒が入っているときに何か決めると、ろくなことにならない」
蓮が冗談めかして答えると、周囲が笑った。
その言葉を、後になって何度思い出すことになるのか。
このときの蓮は知る由もなかった。
近くにいたマヤだけは笑わなかった。
「教授」
「何だ」
「自分で言ったことを忘れないでください」
「契約の話だぞ」
「酒を飲んでいるときに重要な決定をしない、という部分です」
「分かってるよ」
「その言葉は信用していません」
「今日はお前まで保護者か」
「誰かが見ていないと心配なので」
「四十八歳の男を捕まえて何を言う」
「四十八歳だから心配なんです。二十歳なら周囲も止めますが、あなたの場合、止める側が遠慮しますから」
蓮はグラスの中を見た。
まだ一杯目である。
「お前、本当に飲まないのか」
「飲みません」
「ノーベル賞だぞ」
「私が取ったわけではありません」
「チームの成果だと会見で言っただろ」
「珍しく良いことを言ったと思いました」
「毎回一言余計なんだよ」
マヤは小さく笑った。
「先生が二杯でやめるなら、私も一杯くらい飲みます」
「三杯」
「二杯」
「今日くらい五杯いいだろ」
「交渉になっていません」
そこへ高瀬が戻ってきた。
「先生、次は文部科学大臣が待っています」
「もう帰りたい」
「始まって一時間も経ってませんよ」
「研究室のほうが楽だ」
「来る前は楽しみにしてたでしょう」
「人が多すぎる」
「ノーベル賞を取って静かに飲めると思った先生が悪いです」
高瀬に連れられ、蓮はまた人の輪へ入った。
何度握手したか分からない。
何度「おめでとうございます」と言われたかも分からない。
最初は嬉しかった言葉が、二十回を越える頃には定型文に聞こえ始めていた。
それでも機嫌は悪くなかった。
いや、かなり良かった。
グラスが空けば誰かが注ぐ。
一つの乾杯が終わる前に次の乾杯が始まる。
高瀬は何度か「先生、ゆっくり飲んでください」と耳打ちしたが、蓮は「分かってる」と返した。
そして、その返事をするたびに飲んだ。
八時を過ぎた頃だった。
宴会場の入口付近が少し騒がしくなった。
蓮はちょうど海外の研究者と話していたため、最初は気づかなかった。
「先生」
高瀬が肩を叩く。
「あちら」
指さされた方を見る。
入口の近くに、制服姿の少女が立っていた。
黒いブレザーに紺色のスカート。肩までの髪を無造作に結び、片手には学校鞄を持っている。
葵だった。
ホテルの豪華な宴会場に高校生の制服姿というのは、明らかに浮いている。
本人もそれを自覚しているらしく、ものすごく居心地の悪そうな顔をしていた。
蓮は話の途中だった研究者へ軽く頭を下げた。
「すみません。娘が来たので」
「もちろん。行ってあげてください」
蓮は足早に入口へ向かった。
途中でグラスをテーブルへ置く。
「来たのか」
「来たら悪かった?」
「そんなことは言ってないだろ」
「じゃあ、もっと普通に言えないの?」
「来てくれて嬉しい」
言い直すと、葵が少しだけ目を丸くした。
「……今日は本当に変だね」
「俺は普段そんなにひどいのか」
「自覚ないんだ」
「お前と話すと自信をなくすな」
「世界中から天才って褒められたんだから、一人くらい厳しい人がいたほうがいいでしょ」
「お前は一人分以上厳しい」
それでも葵は帰ろうとはしなかった。
蓮はそれだけで少し安心した。
「飯は食ったのか」
「まだ」
「だったら食べていけ。ホテルだから、研究室のケータリングよりはましだ」
「比較対象が悲しいよ」
「研究者は食えればだいたい満足する」
「そういうところが母さんに嫌われたんじゃない?」
「食事の話からいきなりそこへ飛ぶな」
葵は小さく笑った。
蓮は、その笑顔を見て妙にほっとした。
最後に二人だけでゆっくり話したのがいつだったのか、すぐには思い出せない。
高校へ進学してから、葵は以前より連絡を寄越さなくなった。
蓮も研究が忙しいことを理由に、その距離を埋めようとはしなかった。
娘はいずれ自分の人生を持つのだから、それでいい。
そんなふうに考えていた。
本当は、ただ何を話せばいいか分からなかっただけなのかもしれない。
「葵ちゃん」
マヤがやって来た。
「久しぶり」
「マヤさん。久しぶりです」
葵の顔が明らかに柔らかくなった。
蓮はそれが少し面白くない。
「俺に会った時より嬉しそうじゃないか」
「マヤさんは一年ぶりくらいだもん」
「俺だって一か月ぶりだぞ」
「近いほどありがたみが減るんじゃない?」
「父親を食品みたいに言うな」
マヤが笑う。
「葵ちゃん、お父さんを少し見張っていてもらえますか?」
「何をです?」
「お酒です」
「もう飲んでるの?」
「三杯は確実です」
蓮がすぐ訂正した。
「二杯半だ」
「何で半端なの」
「途中で挨拶に呼ばれた」
「じゃあ飲み終えてないだけじゃん」
「細かいな」
「父さんが雑なんだよ」
マヤが満足そうに頷いた。
「やはり娘さんを呼んだのは正解でした」
「俺の味方が一人もいない」
「普段の行いじゃない?」
「お前、本当に俺の娘か」
「そこ疑うなら母さんに聞けば?」
「その冗談は危険だからやめろ」
葵が声を上げて笑った。
その笑いにつられて、蓮も笑った。
久しぶりだった。
娘と話していて、何を言えば正解なのか考えなくて済む瞬間が。
蓮は葵を料理の並ぶテーブルへ連れていった。
高級ホテルらしく、世界各国の料理が揃っている。
葵は皿を手にしたが、周囲から何度も視線を向けられて落ち着かない様子だった。
「何でみんなこっち見るの」
「俺の娘だからだろ」
「それが嫌なんだけど」
「今日は我慢しろ」
「父さんは慣れてるかもしれないけど、私は慣れてない」
「俺だって今日からだ」
そう言われると、葵は少し黙った。
「……そっか」
「何だ」
「いや。父さんは昔からこういうの平気そうだから」
「好きではないぞ」
「嘘。絶対ちょっと楽しんでる」
「まあ、少しは」
「やっぱり」
葵はローストビーフを皿に取りながら笑った。
「でも、すごいね」
「料理が?」
「違うよ」
「ホテルか」
「父さんのこと」
蓮は答えなかった。
葵は料理へ視線を向けたまま続ける。
「学校でもニュース見てた。先生まで授業やめて中継つけたんだよ。クラスの子が『お前のお父さんじゃん』って騒ぐし、本当に恥ずかしかったけど……でも、ちょっとだけ誇らしかった」
「ちょっとだけか」
「そこで欲張るから駄目なんだよ」
「父親なんだから多めに評価されてもいいだろ」
「それは研究者としての評価でしょ。父親としては別採点だから」
胸に刺さる。
「何点だ」
「聞きたい?」
「やっぱりやめる」
「賢明です」
マヤが横から言った。
「まだいたのか」
「いました」
「親子の会話を盗み聞きするな」
「聞こえる場所で話している二人が悪いんです」
葵は笑っていた。
蓮も苦笑しながら、テーブルに置かれていた新しいグラスへ手を伸ばした。
マヤがその手首を掴む。
「四杯目」
「これは水だ」
「シャンパンです」
「似たようなものだ」
「どこがですか」
葵が呆れた顔をした。
「父さん、本当に飲みすぎないでよ。私、酔っぱらいの世話するために来たわけじゃないから」
「分かってる」
「その返事、信用されてないらしいよ」
「お前まで聞いたのか」
「マヤさんから」
マヤは悪びれなかった。
「情報共有です」
「俺の悪評だけ共有するな」
そのとき、宴会場の中央から蓮を呼ぶ声がした。
「如月先生、こちらへお願いします!」
見ると、学長たちが記念撮影の準備をしている。
蓮は露骨に嫌そうな顔をした。
「またか」
「行ってきたら?」
「お前も来い」
「なんで?」
「家族だろ」
葵の表情が一瞬だけ固まった。
しまった、と蓮は思った。
昼間の電話で言われたばかりだ。
都合のいい時だけ家族と言う。
それなのに、また同じ言葉を使った。
「いや、嫌ならいい」
すぐに言い直した。
葵は父親の顔を見た。
そして少し考えてから、ため息をつく。
「今日はいいよ」
「いいのか」
「ノーベル賞取るなんて、多分もうないでしょ」
「二回目の可能性はある」
「そこで否定しないところ、本当に父さんだよね」
「科学者に不可能と言うな」
「はいはい」
蓮と葵は並んで撮影場所へ向かった。
途中、娘が袖を軽く引く。
「父さん」
「何だ」
「おめでとう」
「さっき電話で聞いた」
「今は直接言ってるの」
蓮は歩みを止めかけた。
何か気の利いた言葉を返したかった。
しかし、こういう時に限って何も出てこない。
「……ありがとう」
結局、それだけだった。
「うん」
葵も、それ以上は何も言わなかった。
二人で並んで歩く。
少し後ろをマヤがついてくる。
宴会場には笑い声が満ち、グラスが触れ合う音が響いていた。
誰もが未来の話をしていた。
Q-Genesisによって、医療はどう変わるのか。
エネルギー問題は解決できるのか。
異常気象を予測できるようになるのか。
LIMENは、人類をどこまで豊かにするのか。
希望しかなかった。
その夜の東京には、数千万の明かりが輝いていた。
それが十年後には、ほとんど消えている。
今、この宴会場で笑っている人々の多くも、その日を見ることはない。
けれど、このときの如月蓮には未来など見えなかった。
世界で最も未来を計算できる機械を作った男でありながら、自分自身の数時間先すら知らなかった。
ただ、久しぶりに隣を歩く娘の姿が嬉しかった。
そしてその嬉しさもまた、彼にいつも以上の酒を飲ませる理由になった。
記念撮影が終わる頃には、蓮の頬はすでに少し赤くなっていた。
第39話 安全基準が、利用資格になっていく 国際データ支援基金の暫定合意から三日後、如月蓮は自分の名前が勝手に安全規格へ使われていることを知った。 正確には、正式な規格ではない。 朝、研究室へ入った蓮の机に高瀬が置いた一枚の広告資料には、青と白を基調にした整然としたデザインで、《KISARAGI-COMPATIBLE DISASTER DATA SYSTEM》と大きく印刷されていた。その下には、《人間最終判断型高度AI運用に対応》《国際災害予測データ標準準拠》《LIMEN級AIとの安全な協働を実現》という、蓮が見覚えのない文句まで並んでいる。 数秒ほど黙って読んでから、蓮は紙を裏返した。裏面にも同じ会社の製品一覧がびっしり載っていたので、今度は表へ戻した。「高瀬」「はい」「朝から俺を怒らせようとしてる?」「僕に当たらないでください。見つけたのは国際担当です」「何だよ、キサラギ・コンパチブルって」「如月互換、ですかね」「訳してほしいんじゃない。誰が俺と互換性持ちたいんだよ」 高瀬は笑いを堪えながら、別の画面を開いた。「一社だけじゃありません。似た表現を使ってる会社が、今朝確認できただけで九社あります。《Kisaragi Safety Model》《Kisaragi Human-Control Architecture》《Kisaragi Protocol Ready》なんてのもあります」「プロトコルなんて作った覚えないぞ」「先生が関わった安全規則や運用手順をまとめて、業界側がそう呼び始めたみたいです」「まとめるなよ。しかも俺の名前で」 研究室の奥にいたマヤが、端末を持ったままこちらへ歩いてきた。彼女は蓮の苛立ちを面白がるでもなく、広告を一度見てから眉をひそめた。「商標的な問題は法務へ回しています。ただ、それより気になることがあり
第38話 何を測るかを、誰が決める 《観測能力の格差を、LIMEN利用資格の格差にしないための国際データ支援基金》 前日の会議で提出された時には、如月蓮も悪い案ではないと思っていた。 金のある国だけが商用衛星や民間気象網、高精度の地形データを買い集め、その結果としてLIMENの予測精度まで上がるのであれば、観測能力の弱い国へ同じ土台を用意する仕組みが必要になる。少なくとも、災害に襲われる前から豊かな国と貧しい国の勝負が決まっている状態よりはましだった。 ところが、翌朝届いた基金設立準備会の資料を読んで、蓮はサンドイッチを食べる手を止めた。「これ、基金というより巨大な買い物リストじゃないか」 研究室の机には、珍しく葵に言われた通り朝食を持ってきていた。だが、袋を半分開けたところで資料を読み始めたため、卵とハムのサンドイッチはすでに十分ほど放置されている。 高瀬が蓮の端末を覗き込み、自分の眼鏡を少し押し上げた。「商用衛星利用契約、簡易雨量計、河川水位センサー、地盤変位計、通信中継設備、データ標準化支援……確かに、かなり大きいですね」「初年度予算だけでこれ?」「まだ案ですけど」「最近、その言葉を聞くたびに嫌な予感しかしない」 マヤは少し離れた監視卓から資料を開き、項目ごとの予算配分を確認していた。「規模が大きいこと自体は不自然ではありません。世界中で観測格差を埋めようとするなら、機材だけではなく保守要員や通信回線、教育まで必要です」「そこは分かる。気になるのは出す側だよ」 蓮が出資予定一覧を拡大すると、各国政府、国際機関、公益財団に混じって、巨大通信企業、衛星運用会社、保険会社、物流企業、エネルギー企業の名前が並んでいた。 高瀬も気づいたらしく、少し顔をしかめた。「民間出資がかなり多い」「多いどころじゃな
第37話 正確なデータを買える国 国際利用のために新しい審査基準を導入してから、まだ一日しか経っていなかった。それなのに、如月蓮が翌朝研究室へ入った時には、世界の方がもう次の手を打っていた。 壁面モニターには、各国から提出された災害案件の一覧と、その横に入力データの品質評価が表示されている。昨日まで赤や橙で埋まっていた《観測不足》《地形情報旧版》《人口分布推定》といった警告の一部が、夜の間に緑へ変わっていた。「一晩で観測網が整備された国でもあるのか?」 蓮が鞄を机へ置きながら尋ねると、高瀬は朝食代わりらしい栄養バーを片手に、あまり愉快ではなさそうな顔で振り返った。「観測網そのものが一晩で増えたわけではありません。民間企業が入っています」「民間?」「災害データの補正、形式統一、衛星画像の追加購入、地形モデルの再構成までをまとめて請け負う会社です。昨日の新ルールが公開されたあと、少なくとも六社が《LIMEN対応災害データ支援》みたいなサービスを売り始めました」 蓮は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。「昨日決めた制度に、もう商売が付いたのか」「世界は速いですね」「感心してる場合じゃないだろ」 マヤが横から端末を渡してきた。画面には、海外企業の営業資料が表示されている。《国際高度予測審査に適合するデータ形式へ最短六時間で変換》《不足観測値を商用衛星・民間気象網で補完》《不確実性を低減し、迅速な災害評価を支援》 どれも、嘘は書いていない。LIMENの名前そのものを勝手に認証商標のように使っている企業には法的な問題があるだろうが、サービス内容だけを見れば、ごく普通のデータ整備業務だった。 それでも蓮は、広告の最後に書かれた《国家向け緊急対応プラン》という文字を見て顔をしかめた。「金を払える国ほど、提出データを早く、きれいにできる」
第36話 正直な国ほど、後回しになる 国際利用を求める正式要請が三十四か国まで増えた翌朝、如月蓮は研究室へ入るなり、机の上に置かれた朝食用のサンドイッチより先に世界地図を見た。 昨日は国名の横に災害種別だけが表示されていたはずなのに、今朝はそれぞれの案件に数字が付いている。赤、橙、黄の三段階で色分けされ、その横には《推定影響人口》《重大被害発生までの推定時間》《代替予測手段》《入力データ完全度》といった項目が並んでいた。「これ、誰が作った」 上着も脱がずに尋ねると、高瀬は自分の机から顔を上げた。彼の前にも同じ資料が開かれており、すでに何度か読み返したらしく、紙の端が少し曲がっている。「昨夜の国際利用調整チームです。先生が帰ったあと、政府と外務関係、それから災害支援の専門家で叩き台を作ったそうです」「叩き台にしては完成してるな」「会議が今日の八時半なので、何もない状態から始めたくなかったんでしょう」「その気持ちは分かるけど、点数まで付いてるじゃないか」 蓮が一件を拡大すると、《優先検討指数 82.4》という数字が表示された。 隣の案件は七十八・九。 その次は七十六・一。 世界中の洪水、火災、暴風、地滑りが、一列の数字に整えられている。 見やすい。 だからこそ、気持ちが悪かった。「また数字で並べたのか」 マヤが研究室の奥から歩いてきた。片手には端末、もう片方にはまだ半分ほど残ったコーヒーがある。「人間側で作った暫定式です。LIMENは使っていません」「それは見れば分かる」「先生が嫌がると思って、作成側も明記しています」「俺の好みの問題じゃないんだよ。何を足したら八十二・四になる?」 マヤが式を表示した。 重大被害までの時間。
第35話 世界は順番を待てない 十四日間の第二期運用が始まった翌朝、如月蓮が研究室へ入って最初に見たものは、LIMENの稼働状況でも、昨夜の電力系統ログでもなかった。 壁面モニターには世界地図が表示され、その上に二十三個の小さな印が浮かんでいる。どれもLIMENの限定利用を求めてきた国を示しており、昨日の夕方に十一か国だった数字が、一晩で倍以上に増えていた。「寝てる間に世界が行列作ってるじゃないか」 上着を脱ぎながら蓮が言うと、高瀬は机の上に積まれた書類を指した。「しかも、これ全部が正式要請ですよ。問い合わせだけならもっと多いです。大学の国際担当が朝から半分泣いてます」「何件?」「正式要請が二十三。事前照会まで含めると四十一です」「昨日の夜は二十三だっただろ」「正式要請へ切り替わった国が増えたんです」 蓮は地図へ近づき、表示された分類を見る。熱帯低気圧、洪水、森林火災、地滑り、干ばつに伴う水資源配分、火山活動など、依頼内容はすべて災害分野に限定されている。少なくとも、軍事や政治判断をLIMENへ求める案件は表向きには含まれていなかった。 それでも、問題が小さくなったわけではない。「二か国から始めるって昨日決めたばかりだぞ」「そうです」「二十三か国のうち、どこを選ぶんだ」「それを九時の会議で決めます」「誰が?」「僕らも含めてです」 高瀬が悪い知らせを読み上げる時だけ見せる、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。「朝から嫌な仕事を持ってくるな」「僕だって選びたくありませんよ」 マヤは少し離れた席で、各国から送られてきた資料を確認していた。蓮が視線を向けると、彼女は一つのファイルを画面へ拡大した。「選定基準を先に決めないと、国名を見ながら選ぶこ
第34話 七日だけのはずだった 七日間限定と決めた時、如月蓮は、一週間という長さをかなり短いものだと思っていた。 LIMENを完全停止したことで医療や物流の現場に過剰な負担が生じ、二度目の小さな混乱を越えたあたりから、社会の側が明らかに疲れ始めていた。だから七日だけ借りる。その間に人間側の要員を増やし、過剰に削られていた在庫や予備設備を戻し、AIがなくても社会が回るための足場を作る。 それが最初の話だった。 LIMENに世界を任せるための七日ではなく、LIMENから離れる準備をするための七日だったはずである。 ところが最終日の朝を迎えた今、蓮の机には、《本日午後十一時五十九分をもって緊急予測補助運用プロトコル終了予定》という通知と、《期限後の継続運用に関する最終協議》という会議資料が並んでいた。 同じ机の上に置かれていること自体が、冗談のようだった。「終了予定と継続協議を同じ日に送ってくるなよ」 研究室へ入ってきた蓮が資料を机へ放ると、高瀬がコーヒーを飲みながら苦笑した。「行政としては普通じゃないですか。止める可能性があるから終了通知を出すし、続ける可能性もあるから協議する」「そういう意味で言ってない」「分かってます。でも先生、朝から資料に喧嘩売っても資料は反省しませんよ」「最近お前、俺の扱い方が本当に雑だな」「先生が少し扱いやすくなったんです」「それ褒めてる?」「半分くらいは」 そのやり取りを聞きながら、マヤは大型モニターへ七日間の運用統計を表示していた。彼女はここ数日ほとんど化粧らしい化粧もせず、髪も簡単にまとめているだけだったが、疲れた印象より先に目に入るのは、数字を追う時の鋭い視線だった。「先生、文句を言うのは後にして、これを見てください」「何」「七日間の利用状況です。正確には、今日の午前六時ま