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第4話 祝杯の席に来た娘

last update 게시일: 2026-09-11 20:35:52

第4話 祝杯の席に来た娘

 午後七時を少し回った頃、ホテル最上階の宴会場では、すでに二百人近い招待客がグラスを手にしていた。

 天井から吊られた照明は柔らかな金色で、窓の向こうには東京の夜景が広がっている。高層ビル群の明かりが地平線まで続き、その上を物流ドローンの航路灯が規則正しく流れていた。数十年前なら未来都市の映像として描かれていた景色が、今では誰も気に留めない日常になっている。

 如月蓮は、その夜景を背にして何度目になるか分からない乾杯を受けていた。

「先生、本当におめでとうございます。いやあ、私もいつか先生は取ると思っていましたよ」

 そう言ったのは、十年ほど前に蓮の大型研究予算へ反対票を入れた大学理事だった。

 蓮はグラスを口元へ運びながら、目だけで高瀬を見た。

 高瀬も事情を覚えているらしく、笑いを堪えながら顔を背ける。

「ありがとうございます。理事には昔から応援していただきましたからね」

 蓮がそう返すと、理事は少しだけ目を泳がせた。

「もちろんですとも。私は、基礎研究というものは長い目で見る必要があると、常々申し上げておりまして」

「そうでしたか」

「ええ、ええ」

「十年前の研究審査会の議事録には、ずいぶん違うことが書いてあった気もしますが」

 理事の笑顔が固まった。

 すぐ横から高瀬が蓮の背中を軽く叩く。

「先生、こちらにもご挨拶を」

「まだ話の途中だ」

「途中じゃなくて終わりです。理事、今日は本当にありがとうございます」

 高瀬は蓮の腕を掴み、半ば強引に別の場所へ連れていった。

「離せ」

「先生、今日は喧嘩する日じゃありません」

「喧嘩じゃない。記憶の確認だ」

「相手が忘れたふりをしてるんだから、そこは大人として忘れたふりを返すところなんですよ」

「科学者が事実を曲げてどうする」

「人間関係は論文じゃありません」

 蓮は鼻を鳴らした。

「やっぱり面倒だな、人間は」

「その面倒な人間から研究費をもらって二十年以上研究してきたんでしょう」

「だから我慢している」

「我慢できていませんよ」

 二人のやり取りを聞いていた若い研究員たちが笑った。

 宴会は当初、研究チームだけでささやかに祝う予定だったらしい。

 ところが受賞が発表されると大学が正式な祝賀会へ変更し、さらに共同研究先、大手企業、政府関係者、海外から来日中だった研究者まで参加することになった。

 結果として、蓮自身が名前すら知らない人間まで彼を祝っている。

 ありがたいとは思う。

 同時に、妙でもあった。

 昨日まで廊下ですれ違っても会釈しかしなかった人間が、今日は昔からの親友のような顔をして肩を叩いてくる。

 ノーベル賞には、人間関係まで量子化する力があるらしい。

「如月教授」

 外国語で呼びかけられ、振り返る。

 欧州系のエネルギー企業役員が、通訳を伴って立っていた。

「受賞おめでとうございます。我々はQ-Genesisを利用した次世代送電網の最適化について、ぜひ共同研究を進めたいと思っています」

「ありがとうございます。ただ、今日は契約の話はやめましょう。酒が入っているときに何か決めると、ろくなことにならない」

 蓮が冗談めかして答えると、周囲が笑った。

 その言葉を、後になって何度思い出すことになるのか。

 このときの蓮は知る由もなかった。

 近くにいたマヤだけは笑わなかった。

「教授」

「何だ」

「自分で言ったことを忘れないでください」

「契約の話だぞ」

「酒を飲んでいるときに重要な決定をしない、という部分です」

「分かってるよ」

「その言葉は信用していません」

「今日はお前まで保護者か」

「誰かが見ていないと心配なので」

「四十八歳の男を捕まえて何を言う」

「四十八歳だから心配なんです。二十歳なら周囲も止めますが、あなたの場合、止める側が遠慮しますから」

 蓮はグラスの中を見た。

 まだ一杯目である。

「お前、本当に飲まないのか」

「飲みません」

「ノーベル賞だぞ」

「私が取ったわけではありません」

「チームの成果だと会見で言っただろ」

「珍しく良いことを言ったと思いました」

「毎回一言余計なんだよ」

 マヤは小さく笑った。

「先生が二杯でやめるなら、私も一杯くらい飲みます」

「三杯」

「二杯」

「今日くらい五杯いいだろ」

「交渉になっていません」

 そこへ高瀬が戻ってきた。

「先生、次は文部科学大臣が待っています」

「もう帰りたい」

「始まって一時間も経ってませんよ」

「研究室のほうが楽だ」

「来る前は楽しみにしてたでしょう」

「人が多すぎる」

「ノーベル賞を取って静かに飲めると思った先生が悪いです」

 高瀬に連れられ、蓮はまた人の輪へ入った。

 何度握手したか分からない。

 何度「おめでとうございます」と言われたかも分からない。

 最初は嬉しかった言葉が、二十回を越える頃には定型文に聞こえ始めていた。

 それでも機嫌は悪くなかった。

 いや、かなり良かった。

 グラスが空けば誰かが注ぐ。

 一つの乾杯が終わる前に次の乾杯が始まる。

 高瀬は何度か「先生、ゆっくり飲んでください」と耳打ちしたが、蓮は「分かってる」と返した。

 そして、その返事をするたびに飲んだ。

 八時を過ぎた頃だった。

 宴会場の入口付近が少し騒がしくなった。

 蓮はちょうど海外の研究者と話していたため、最初は気づかなかった。

「先生」

 高瀬が肩を叩く。

「あちら」

 指さされた方を見る。

 入口の近くに、制服姿の少女が立っていた。

 黒いブレザーに紺色のスカート。肩までの髪を無造作に結び、片手には学校鞄を持っている。

 葵だった。

 ホテルの豪華な宴会場に高校生の制服姿というのは、明らかに浮いている。

 本人もそれを自覚しているらしく、ものすごく居心地の悪そうな顔をしていた。

 蓮は話の途中だった研究者へ軽く頭を下げた。

「すみません。娘が来たので」

「もちろん。行ってあげてください」

 蓮は足早に入口へ向かった。

 途中でグラスをテーブルへ置く。

「来たのか」

「来たら悪かった?」

「そんなことは言ってないだろ」

「じゃあ、もっと普通に言えないの?」

「来てくれて嬉しい」

 言い直すと、葵が少しだけ目を丸くした。

「……今日は本当に変だね」

「俺は普段そんなにひどいのか」

「自覚ないんだ」

「お前と話すと自信をなくすな」

「世界中から天才って褒められたんだから、一人くらい厳しい人がいたほうがいいでしょ」

「お前は一人分以上厳しい」

 それでも葵は帰ろうとはしなかった。

 蓮はそれだけで少し安心した。

「飯は食ったのか」

「まだ」

「だったら食べていけ。ホテルだから、研究室のケータリングよりはましだ」

「比較対象が悲しいよ」

「研究者は食えればだいたい満足する」

「そういうところが母さんに嫌われたんじゃない?」

「食事の話からいきなりそこへ飛ぶな」

 葵は小さく笑った。

 蓮は、その笑顔を見て妙にほっとした。

 最後に二人だけでゆっくり話したのがいつだったのか、すぐには思い出せない。

 高校へ進学してから、葵は以前より連絡を寄越さなくなった。

 蓮も研究が忙しいことを理由に、その距離を埋めようとはしなかった。

 娘はいずれ自分の人生を持つのだから、それでいい。

 そんなふうに考えていた。

 本当は、ただ何を話せばいいか分からなかっただけなのかもしれない。

「葵ちゃん」

 マヤがやって来た。

「久しぶり」

「マヤさん。久しぶりです」

 葵の顔が明らかに柔らかくなった。

 蓮はそれが少し面白くない。

「俺に会った時より嬉しそうじゃないか」

「マヤさんは一年ぶりくらいだもん」

「俺だって一か月ぶりだぞ」

「近いほどありがたみが減るんじゃない?」

「父親を食品みたいに言うな」

 マヤが笑う。

「葵ちゃん、お父さんを少し見張っていてもらえますか?」

「何をです?」

「お酒です」

「もう飲んでるの?」

「三杯は確実です」

 蓮がすぐ訂正した。

「二杯半だ」

「何で半端なの」

「途中で挨拶に呼ばれた」

「じゃあ飲み終えてないだけじゃん」

「細かいな」

「父さんが雑なんだよ」

 マヤが満足そうに頷いた。

「やはり娘さんを呼んだのは正解でした」

「俺の味方が一人もいない」

「普段の行いじゃない?」

「お前、本当に俺の娘か」

「そこ疑うなら母さんに聞けば?」

「その冗談は危険だからやめろ」

 葵が声を上げて笑った。

 その笑いにつられて、蓮も笑った。

 久しぶりだった。

 娘と話していて、何を言えば正解なのか考えなくて済む瞬間が。

 蓮は葵を料理の並ぶテーブルへ連れていった。

 高級ホテルらしく、世界各国の料理が揃っている。

 葵は皿を手にしたが、周囲から何度も視線を向けられて落ち着かない様子だった。

「何でみんなこっち見るの」

「俺の娘だからだろ」

「それが嫌なんだけど」

「今日は我慢しろ」

「父さんは慣れてるかもしれないけど、私は慣れてない」

「俺だって今日からだ」

 そう言われると、葵は少し黙った。

「……そっか」

「何だ」

「いや。父さんは昔からこういうの平気そうだから」

「好きではないぞ」

「嘘。絶対ちょっと楽しんでる」

「まあ、少しは」

「やっぱり」

 葵はローストビーフを皿に取りながら笑った。

「でも、すごいね」

「料理が?」

「違うよ」

「ホテルか」

「父さんのこと」

 蓮は答えなかった。

 葵は料理へ視線を向けたまま続ける。

「学校でもニュース見てた。先生まで授業やめて中継つけたんだよ。クラスの子が『お前のお父さんじゃん』って騒ぐし、本当に恥ずかしかったけど……でも、ちょっとだけ誇らしかった」

「ちょっとだけか」

「そこで欲張るから駄目なんだよ」

「父親なんだから多めに評価されてもいいだろ」

「それは研究者としての評価でしょ。父親としては別採点だから」

 胸に刺さる。

「何点だ」

「聞きたい?」

「やっぱりやめる」

「賢明です」

 マヤが横から言った。

「まだいたのか」

「いました」

「親子の会話を盗み聞きするな」

「聞こえる場所で話している二人が悪いんです」

 葵は笑っていた。

 蓮も苦笑しながら、テーブルに置かれていた新しいグラスへ手を伸ばした。

 マヤがその手首を掴む。

「四杯目」

「これは水だ」

「シャンパンです」

「似たようなものだ」

「どこがですか」

 葵が呆れた顔をした。

「父さん、本当に飲みすぎないでよ。私、酔っぱらいの世話するために来たわけじゃないから」

「分かってる」

「その返事、信用されてないらしいよ」

「お前まで聞いたのか」

「マヤさんから」

 マヤは悪びれなかった。

「情報共有です」

「俺の悪評だけ共有するな」

 そのとき、宴会場の中央から蓮を呼ぶ声がした。

「如月先生、こちらへお願いします!」

 見ると、学長たちが記念撮影の準備をしている。

 蓮は露骨に嫌そうな顔をした。

「またか」

「行ってきたら?」

「お前も来い」

「なんで?」

「家族だろ」

 葵の表情が一瞬だけ固まった。

 しまった、と蓮は思った。

 昼間の電話で言われたばかりだ。

 都合のいい時だけ家族と言う。

 それなのに、また同じ言葉を使った。

「いや、嫌ならいい」

 すぐに言い直した。

 葵は父親の顔を見た。

 そして少し考えてから、ため息をつく。

「今日はいいよ」

「いいのか」

「ノーベル賞取るなんて、多分もうないでしょ」

「二回目の可能性はある」

「そこで否定しないところ、本当に父さんだよね」

「科学者に不可能と言うな」

「はいはい」

 蓮と葵は並んで撮影場所へ向かった。

 途中、娘が袖を軽く引く。

「父さん」

「何だ」

「おめでとう」

「さっき電話で聞いた」

「今は直接言ってるの」

 蓮は歩みを止めかけた。

 何か気の利いた言葉を返したかった。

 しかし、こういう時に限って何も出てこない。

「……ありがとう」

 結局、それだけだった。

「うん」

 葵も、それ以上は何も言わなかった。

 二人で並んで歩く。

 少し後ろをマヤがついてくる。

 宴会場には笑い声が満ち、グラスが触れ合う音が響いていた。

 誰もが未来の話をしていた。

 Q-Genesisによって、医療はどう変わるのか。

 エネルギー問題は解決できるのか。

 異常気象を予測できるようになるのか。

 LIMENは、人類をどこまで豊かにするのか。

 希望しかなかった。

 その夜の東京には、数千万の明かりが輝いていた。

 それが十年後には、ほとんど消えている。

 今、この宴会場で笑っている人々の多くも、その日を見ることはない。

 けれど、このときの如月蓮には未来など見えなかった。

 世界で最も未来を計算できる機械を作った男でありながら、自分自身の数時間先すら知らなかった。

 ただ、久しぶりに隣を歩く娘の姿が嬉しかった。

 そしてその嬉しさもまた、彼にいつも以上の酒を飲ませる理由になった。

 記念撮影が終わる頃には、蓮の頬はすでに少し赤くなっていた。

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